※ネタバレあり。閲覧注意。
注意
- 話の内容は同じです。なので、ちょっとしか違わないお話を3回も読むことになるので、退屈かもしれません。
- 恥を忍んで、誤字脱字その他もそのまま載せてみます。
- 名前などが違うのは、書きながら変更したためです。
***
カフェILYA 下書き(3)
一枚板の重厚なドアを開けると、昔ながらの喫茶店のようにドアベルがカラコロと鳴った。それがかわいらしくて、いつもそのギャップにくすりと笑いそうになる。
中はカウンターだけの5席。
「いらっしゃいませ」
甘く茶色に光る立派なカウンターの奥で声をかけてくれたのは、細身のバリスタだった。
黒いスラックスに白いシャツ、深いこげ茶のベスト、品のいい蝶ネクタイ。
腰に丈の長いギャルソンエプロンをきゅっと締めているせいで、細い腰がますます強調され嫌でも目がいってしまう。
柔らかに笑うと目尻にかわいいしわができる。
自分より随分年上のはずなのに、「かわいい」と思ってしまう。
人懐っこい笑顔で迎え入れられると、心底ほっとする。
今夜は先客が誰もおらず、真ん中の席に着くと熱々のおしぼりが手渡される。
動くたびにバリスタのゆるく結んで後ろに流している長い髪が揺れる。
手を拭き終わったタイミングで、小さな手書きのメニュー表が差し出された。
ここ、カフェ ILYA《イリヤ》は風変わりなカフェだ。
置いてあるのはコーヒーだけ。
それもブレンド。
「邪道なのはわかっているのですが、コーヒーもお茶のようにいろんなブレンドができないかと思ってやっているんです」
そう悪戯っ子のように笑いながら言ったのはカウンター内にいるバリスタのユーヤさんだった。
左胸に光るネームプレートには「YUYA」とだけあり、他の客がそう呼んでいるので、俺も呼んでいる。
ユーヤさんが言うように、様々なコーヒーの粉をブレンドし、好きな名前をつけて出している。
仕事帰りに、ふらりとここに寄って適当なものを注文するのが俺は好きだ。
意外性のある味に驚くこともあるし、深く癒されることもある。
「ユーヤさんのお薦めで」
「そちらの方は?」
大概一人でここに来るが、今日は違う。
大学のときから付き合いがある黛《まゆずみ》に金曜日だからどうだと飲みに誘われ、つい面白いカフェがあると話してしまい是非に連れていけとごねられたのでやってきたのだ。
この時間にILYAに来るのは初めてだ。
随分遅い時間だったが、開いていて驚いた。
「俺もお薦めでもいいですか?」
「かしこまりました」
ユーヤさんは小さくうなずくと、並んでいる粉の缶に手を伸ばした。
左に座る黛が店内を見回している。
「すごいところだな。
アルコールが出てきてもよさそうな雰囲気」
「言っただろ。
安煙草なんて吸えないよ」
こんなに綺麗なバリスタがいるのならさぞかし女の子にモテて騒がれそうな店なのに、女性客がいないのはこの雰囲気にある、と俺は思っている。
重厚なドアもそうだが、甘くとろけそうに磨かれた明るい茶色のカウンターも一枚板だ。
店の壁紙もヨーロッパのものっぽくて、深い緑に金の模様が入っている。
座っている椅子もどっしりとしてシートと背もたれの革は滑らかなこげ茶だ。
ユーヤさんの後ろにあるガラスが入った扉のついた棚もアンティークのもののようだ。
収められているカップとソーサーは基本的に白で、この店のロゴが綺麗に入っている。
上のほうにはコレクションらしい磁器のカップとソーサーがあるのもちらりと見える。
こんな雰囲気のカフェだから、きゃあきゃあとうるさい若い女の子より、スーツ、いや、もっと古めかしく「背広」と言ったほうが似合うかもしれない、それも三つ揃えの大人の男がいるのが似合う。
オーダーメイドのそれを着て、葉巻をくゆらすくらいの「大人の男」だ。
実のところ、三十路は過ぎたとはいえいまだに落ち着かない俺には、この店は似合っていないと思っている。
気にしてそのことを口に出したら、ユーヤさんはにこやかに「男の人はいつまでもやんちゃな男の子のまんまですよ」と言い放った。
俺はほっとはしたが、それでも気後れしてあまり人がいないのを見計らってここに来ていた。
「佐藤はよくここに来るの?」
「ううん、たまにだよ。
ここに座ってぼーっとしたり、ユーヤさんとちょっとしゃべって、コーヒー1杯飲んで帰る」
「優雅な時間過ごしているな」
「だから秘密にしたかったのに、黛が連れていけってうるさかったじゃないか」
「なんだよ、佐藤も自慢してたじゃん」
酔いのせいか、親しい友人といるせいかまるで学生の頃に戻ったようにくだけた話し方になる。
しばらく、そんなことを話していると白いカップとソーサーでコーヒーがサーヴされた。
「お待たせいたしました。どうぞ」
俺はカップを持ち上げ、まず香りを嗅ぐ。
深くて甘い香りだ。
まるでチョコレートみたいな。
「佐藤さんには『花散里』、黛さんには『花宴』をご用意しました」
一緒に砂糖とミルクが出てきたが、まずは何も入れずに口に含む。
苦みの中にこっくりとしたココアのような甘さがそっと忍ばせてある。
今週仕事で忙しくてぼろぼろになった俺には沁みる味だ。
いつもぼろぼろだが、今回はロクに食事もできずに参った。
黛が驚いて、飲むより食べろと飲み屋でバランスのよい料理を注文するのに、頭をひねっていた。
口の中に甘さの余韻を残し、俺はユーヤさんを見た。
ユーヤさんはにこっと笑った。
「佐藤さんより10コ以上は年上ですよ」と言っていたから41より上のはずだけど、そのかわいさは反則だ。
いつもユーヤさんに癒されにきているのに、このコーヒーでも癒されるだなんて。
黛がいなかったら、一対一でもっとユーヤさんと話ができていたかもしれないのに。
と、その黛が静かなのに気がついた。
うるさいほどではないが、少し大きめの声でいつも陽気に話をする黛が黙っている。
ちらりと横を見ると、一口飲んだ黛が眉間にしわを寄せ、ソーサーにカップを置いて中のコーヒーを凝視していた。
「おい、どうした?
そっちのうまい?
飲ませてよ」
いつもと違う、余りに真剣な表情の黛が怖くなって、それを壊すかのように俺は黛が答える前にあいつのカップを取り上げ、飲んだ。
熱っ!
驚いた。
なんだ、この熱さ!
コーヒー自体が熱すぎるわけではない。
俺が飲んだのと同じくらいの温度だと思う。
しかし、とても刺激的でカッと身体が熱くなる。
コーヒーがかつて媚薬として使われたってこと、あったかな?
どこかで聞きかじったおぼろな記憶を手繰るが、すべてが曖昧だった。
身体の奥の官能が呼び起こされるような、そんな熱さ。
厳しい表情をした黛がキッと顔を上げ、ユーヤさんになにか言おうとしたとき、カラコロとかわいい音がした。
ドアが開いて、一人の男が入ってきた。
まさにこの店に似合う男だった。
細い金縁の眼鏡に深い茶色の三つ揃えのスーツ、よく履き込まれ手入れされた上等な靴。
歳は60を越えているか。
中折れ帽を取ると、店の隅に置いてあるコート掛けの上に手慣れたようにひょいと置いた。
そして、俺の右側の席を一つ空けて座った。
「いらっしゃいませ」
「今日は遅くまでやっているんだね」
「ええ、お陰様で」
ユーヤさんはにこやかにおしぼりを手渡す。
白髪交じりの髪は後ろに流しているが、夜が遅いせいか帽子のせいか、少し乱れて前髪が落ちていた。
小柄なほうだが、只者ではない圧倒的な存在感に俺も黛も飲まれている。
それなのにユーヤさんは涼しい顔で接客している。
貫禄が全然違う。
この人なら、葉巻も似合うだろう。
手渡されたメニュー表を見て、男は呟いた。
「おや、今回は『源氏』?」
「ええ、ちょっとしっとりした気分だったので」
「しっとりねぇ」
男はメニュー表を眺め、意味を含めたような口調で言う。
「でも、『須磨』はあるんだ。
それにするよ」
「かしこまりました」
ユーヤさんは返されたメニュー表を受け取り、コーヒーを淹れ始めた。
男が手を組みカウンターに肘をついて、ユーヤさんを眺めている。
手首のところからシャツの袖口とカフスボタンがちらりと見える。
カフスボタンをするようなシャツ、俺持ってないぞ。
というか、カフスボタン自体持ってたかな。
じっと見過ぎたのかもしれない。
俺と黛に男がニコっと笑いかけた。
「すまなかったね、うるさかったかい?」
俺たちは首を横に振った。
「今回のコーヒーの名前が『源氏物語』の巻名だったものでね。
知っているかい、『源氏物語』?」
「学校で習ったはずですが、あまり覚えていません」
黛が答えると、男は静かにうなずいた。
「54帖あって、それぞれに名前がついているんだよ。
私が頼んだ『須磨』というのは、美貌の光源氏がライバル視されていた右大臣家の怒りを買ったので、他に害が及ぶ前に自分から須磨に流れていくことにした話だよ。
華やかな都にいたのに鄙びた須磨に行き寂しくて心乱れるんだけど、一人寝の寂しさを誰も満たしてくれなくてね」
男はちらりとユーヤさんを見る。
しかし、ユーヤさんは素知らぬ顔をしている。
この男、ユーヤさんとどういう関係なんだ?
俺はむっとした。
「ところで君は何を飲んでいるの?」
「え?俺ですか?
えーっと…なんでしたっけ、ユーヤさん?」
急に話を振られ慌てたのと覚えてなかったのとで、とっさにユーヤさんに聞いてみる。
「佐藤さんには『花散里』をお出ししました」
「ふうん。
花散里は源氏の恋人の一人でね、滅多にやって来ない源氏にも恨み言を一つも言わずにいつも優しく迎えてくれるんだよ。
須磨に流れていく前に、源氏は弱っていたのかな、花散里のところへその優しさに癒されに行くんだ」
ん?
癒しの姫君?
ちょっと、俺がここに来る目的がユーヤさんにバレてるの?
ユーヤさんに癒されに来てるの、バレバレなの?
ヘンな汗が出そうになって、俺は焦った。
「ちょっと疲れているみたいだね。
大丈夫なの?」
男はぐっと上半身をこっちに近づけ、腕を伸ばすと左の人差し指を曲げ、俺の頬をひとなでした。
びっくりして口をぱくぱくさせていると、「肌の調子もよくないね。食べて寝てる?友達にあまり心配かけてはいけないよ」と優しく言い、身体を戻して椅子に座り直した。
あっという間のことだった。
驚いたけど、嫌な気にはならなかった。
すごくさりげなくて、気がついたら頬を撫でられ心配されていただなんて、この人の手練手管は相当なのか。
男は涼しい顔をして、またコーヒーを飲んだ。
「君のは?」
男は今度は俺の向こうにいる黛に話しかけた。
ずっと押し黙っていた黛だが、「花宴です」と短く答えた。
そっとあいつの顔を見たが、ユーヤさんに物申しそうな思いつめた感じは薄まっていて、俺は安堵した。
「誰か好きな人、いるの?」
突然の発言に大いに俺は驚く。
振り向いて黛を見ると、あいつも同じように驚いていた。
「どんな人?」
男はユーヤさんが置いたカップに口をつけながら聞いた。
おい、本当か?
黛に好きな人がいるなんて、俺は聞いてないぞ。
そう言いたいのに言えずに、黛を凝視した。
あいつは驚いた顔をしていたが、大きな呼吸を一つするときりっとした顔つきになり口を開いた。
「います。
そばにいて気持ちのいい人です。
だからずっとそばにいて見ていたい。
最近、疲れているのが続いているので心配です」
きっぱりと言い切った黛は、なぜかすっきりした表情をしていた。
こいつにこんな顔をさせる女って誰だ?
相当だぞ、これまで付き合っていたのを見てきたけど、こんな顔になったのを見たのは初めてだ。
俺はぽかんを黛を見ていた。
「『花宴』というのは、源氏が須磨に流れる原因が描かれた話だよ」
真っすぐに黛を見ながら、男は言った。
「右大臣の娘に朧月夜というのがいてね、美しいし女っぷりもいいから天皇に輿入れさせようと考えていたんだ。
けれどそうする前に源氏が手をつけた。
最初はお互いに正体がわかっていなかったが、わかってもなお源氏は彼女のところに通い続け、朧月夜も拒みはしなかった。
ライバル視されていた右大臣の娘に、それも天皇に近づくために差し出そうとしていたのに手を出したんだ。
二人は危険な恋をした。
それがばれて右大臣の怒りを買い、須磨に流れていったわけだけど」
言葉を切って、男はにやりと笑った。
「私は嫌いじゃないよ。
必ず想いが叶うとかモラルとかそんなのそっちのけの身を焦がす恋愛」
だからか。
俺は黛のカップに口をつけたことを思い出す。
身体が熱くなり、焦れたように疼いたあの飲み物を。
源氏と朧月夜の激しい想いを表現した熱さ。
ユーヤさんが黛に出した理由。
思わず俺は熱っぽい溜息をついた。
「君はどうなの?
なんとしてでも奪いたいと思わない?
周りを全部敵に回して、社会的地位も名誉もすべて捨てても、その人が欲しくないの?」
「いや、そこまでは……」
黛が言い淀む。
「ふーん、じゃあ、その人が他の人に惚れているのを指を咥えて見ているだけか。
そのうち他の人にかっさらわれてもいいんだ」
「なっ」
男はにやりと笑ってはいるが、鋭い眼光で黛を見る。
「君の朧月夜はのんびり屋さんのようだけど、とても魅力的なのは知っているだろう?
このままじゃ、君は源氏になりきれない。
他の誰かが源氏になって、さらっていくよ」
黛がぐっと拳を握りしめた。
「自由で子どものようで、そして大人。
朧月夜はそんな人だ。
純粋過ぎて目の前の自分の興味のあることしか見えていない。
残酷なほどの無邪気さで、君なんて目に入らず、源氏が現れたらそいつのところへ走っていくだろうな。
なんていったって、一途で情熱的なんだから」
過激なことを言う男の言葉にぎょっとしながら、俺は黛が気になって見ている。
黛は奥歯をぎゅっと噛み締めた。
「これまで」
押し殺した黛の声。
「俺は、見ているだけでいいと思っていました。
その人が幸せであればそれでいい、と」
そこまで言うと黛は大きく息を吐いた。
「でも、今夜、思い知りました。
それだけじゃだめだ、って。
その人が他の誰かと幸せであるのを見たいんじゃない。
俺と一緒に幸せになるのが見たい」
内側から絞り出すように黛が一気に言い、そしてなぜか俺を見た。
恐ろしい気迫に俺は思わずのけぞった。
「そろそろ止めてくださいね」
男と黛の会話の間にユーヤさんが口を挟んだ。
「なんだ、先に君がこの人を煽ったんだろう?」
男が少し拗ねたように言う。
「煽っただなんて、人聞きの悪いこと言わないでください」
「だって、『花宴』だろう?
秘めてるだけじゃなくて、なりふり構わず駆け抜けろ、と伝えたいんだと思ったんだけど」
「そこまで乱暴なことは思っていませんよ」
「君が考えたことと私が言ったことは、そう大差はないよ」
「そうですか?」
珍しくユーヤさんが口数多く男に話しかけている。
それを横目に俺はそっと黛の方を向いて、あいつの肘を突っつき小さく聞いてみた。
「好きなやついたの?」
黛は一瞬かっと顔を上気させたが、すぐにさっきの精悍な顔つきになってうなずいた。
いたんだ……
俺は動揺したのがバレないように、できるだけ静かに尋ねた。
「いつから?」
「知り合ったのはずっと前だけど、気持ちを自覚したのは最近」
黛は淀むことなくきっぱりと言った。
本気だ。
これまで恋愛について聞いたとき、黛はのらりくらりかわしてきたのに、今回はなんていうか腹で受け留めている、というか。
誰だ?
どんな人だ?
黛をここまで熱くさせる人って……
たまに調子に乗り過ぎることもあるが、黛はいいヤツだ。
失礼なことも相手を傷つけるようなこともしない、大らかで気持ちのいい男だ。
誠実でマメだから、女性ウケもいい。
はっきり言ってモテる。
「叶うといいな」
「……ああ」
というか、こんないいヤツを振るような女がいるのか。
俺たちもいい歳だし、もしかしたら結婚式で友人代表としてスピーチなんかするのかな。
先を越されたような、じりっとした気分がこみ上げてくる。
焦り?
妬み?
いらつきそうな気持ちにコーヒーをすすると、甘く温かな香りがふわんと鼻腔を満たし、俺は気持ちを切り替えようとした。
盗み見た黛もコーヒーを飲んでいた。
くっきりとした横顔に色香が漂っていた。
それ飲んで、熱くなるのか。
コーヒーとユーヤさんたちの煽りに乗って、全てを捨てて誰かとの恋に身を焦がすのか。
やりきれない思いに、俺は優しかった「花散里」が途端に物足りなくなってしまった。
優しさが霞み、苦みが胸にこびりつく。
「やれやれ、そろそろお暇する時間のようだね」
カタリと音がして、男が立ち上がった。
しばらくユーヤさんと静かにしかし熱っぽく応酬していたが、きりがついたらしい。
ユーヤさんがカウンターから出てきた。
初めて見た、そんなの。
俺の驚きをよそに、中折れ帽子を被り振り返った男が腕を広げるとユーヤさんはそこに入っていき熱いハグをしていた。
「またお待ちしています」
「袖の涙が乾かないうちにまた来る」
「お心にもないことを」
驚いて声も出ない光景だったのに、その男はあろうことにユーヤさんの背中に回した手を下に滑らせ、形のよいヒップをなでた。
一瞬のことにユーヤさんは声にならない声を上げた。
「イリヤ!」
なっなっなっなっなんてこと!
頭に血が上った。
ここの客の間では暗黙の了解になっているのが「ユーヤさんに近づきすぎない」ということだった。
ユーヤさん目当てにILYAに来る客は少なくない。
トラブルが起きないように、ユーヤさんに迷惑がかからないように、誰も一言も言わないがなんとなくそんな空気が流れている。
それなのに、こいつはユーヤさんと親しい素振りを見せ、ハグした挙句にユーヤさんのお尻をなでるだなんて!
腕をほどき、イリヤと呼ばれた男はニヤリと笑って言った。
「君のあの『須磨』だけど、気持ちはわかるが荒み過ぎているよ。
苦過ぎて飲めたものじゃない。
須磨にいた源氏は、華やぎを忘れなかったと思うよ。
もっと『都に帰りたい』とも思わせてくれ。
紫のいる華やいだ都に、ね」
イリヤはユーヤさんの頬をひとなでするとドアを開けた。
そして振り返り、黛に向かって言った。
「君の朧月夜はそこまで情熱的ではなさそうだけど、ま、時間の問題かな」
「だと嬉しいですね。
ありがとうございます」
イリヤはなぜか俺に向かってウィンクをし、黛には手を上げ外に出て行った。
それを追うようにユーヤさんも外に行き、そして少しして戻ってきた。
呆気に取られたままの俺たちに、ユーヤさんは苦笑いを浮かべた顔を向けた。
「お見苦しいところをお見せしましたね」
ユーヤさんは何事もなかったようにカウンターに近づき、イリヤの飲み残したコーヒーが入ったカップに手をやった。
「あのっ」
切羽詰まった声を上げてしまった。
ユーヤさんがこちらを見る。
いや、こんなに近くで見たの、初めてかも。
思ったより長いまつ毛。
動揺しながらも、俺はユーヤさんを見て一気に言った。
「さっきのセクハラじゃないんですか。
もし必要なら、俺も黛も見ていたし証言しますよ」
ユーヤさんは一瞬きょとん、として、それから花のように微笑んだ。
「イリヤはここのオーナーです。
ほら、だから店も彼の名前で、私は雇われ店長なんですよ。
コーヒーについて私が知っていることは全て、イリヤから教わりました。
それから、生き方もちょっぴり、ね」
優雅な手つきでイリヤのカップを持ち上げ、ユーヤさんは残っていたコーヒーを口に含む。
「……荒みすぎ、か……」
掠れた声でぽつりと呟き、複雑な表情をユーヤさんは浮かべる。
その意味を読み取ろうとするが、なに一つわからない。
「京の都に少女の時から育て上げた紫の上という最愛の妻がいながら、須磨に流れていたとき招きを受けて訪れた明石で出会った立派な姫君と契りを結んで子どもまで作っているんですよ、源氏は」
一息で言ったユーヤさんは奥歯を噛みしめる。
「なにが『都に帰りたくなるようにしてくれ』ですか。
自分は明石でいい思いをしているのに」
ユーヤさん?
声を荒げるわけではないのに、抑えた感情の迫力がこっちまで伝わってくる。
「あんなに私に粉をかけておいて、自分は大学生の恋人と遊んでいるんですよ」
は?!
驚いている俺をよそに、乱暴に音を立ててカップをソーサーに戻し、ユーヤさんはカウンターの中に入っていった。
そして改めてカウンターの中から正面きって俺たちを見る。
「驚かせて、本当にごめんなさいね」
「いえ、そんな」
俺は両手を振ってユーヤさんに返す。
「お二人とも、お時間もう少しいいですか?」
え?
俺と黛は顔を見合わせ、軽くうなずくと「大丈夫です」と答えた。
「よかったら、私の趣味に少しだけ付き合ってくれませんか?」
意味がわからず、俺たちはユーヤさんを見る。
「お店はクローズドの札にしたし、ここからは私のプライベートタイムです。
ハーブティーを淹れるので、一緒にいかがですか」
「ハーブティー?」
「ええ、むしろこっちのほうが私の本業なんです」
ユーヤさんはいそいそと水を入れたやかんを火にかけ、後ろの吊戸棚の左隅を開く。
そこにはずらりと乾燥ハーブの入った瓶が並んでいた。
それを適当に取り出して並べていく。
「本当はきっちり計量するんですが、今日は即興です。
大丈夫。
怒りに任せて眠れないものは淹れませんよ。
むしろよく眠れるのにしましょうね」
ユーヤさんは手慣れた様子でガラスのカップとソーサーを3客、そして揃いのガラスのポットも取り出した。
俺たちは黙ってそれを見ている。
静かな時間が流れる。
ユーヤさんは流れるような手つきで湯を沸かし、ポットを温めると恐ろしい集中力と勢いでいろんなハーブを入れると、熱湯を注ぎ、ポットにふかふかの帽子のような布をかぶせた、砂時計をひっくり返した。
そこで、やっと「ふぅ」っと息を吐き、緊張を解いて、にっこりと笑った。
「ユーヤさん、本当に大丈夫なんですか」
落ち着いた声で黛が聞いた。
「ええ」と、いつもの調子に戻ったユーヤさんが答えた。
「私のほうこそごめんなさい。
余計なコーヒーをお薦めしてしまって」
「いえ、ありがたかったです。
あれで腹が据わりました。
周りを全部敵に回しても遂げたい気持ちなのだ、と確認できました」
「あまり暴走しないでくださいね。
ちょっとだけ応援したかったんです。
見てるだけじゃ伝わらないことって多いでしょう?
もうちょっと押してもよさそうな気がして」
「なぁ」
俺はムッとして黛とユーヤさんの会話に割って入った。
「一体、何の話をしてるの?
俺にはさっぱりわからないんだけど」
黛は大きく溜息ををつき、ユーヤさんは肩をすくめて、黛をちらりと見た。
「私とイリヤの大きなお世話、のお話です。
黛さんはしっかりした方だから、余計な心配なんて必要ないのですが、もどかしくて」
ユーヤさんは小さく笑って俺を見た。
なんだよ、黛は初めてここに来たのに、ユーヤさんと馴れ馴れしく話して。
「ふふ、佐藤さんにも別のコーヒーをお薦めしたほうがよかったかなぁ」
「どういう意味ですか?」
ユーヤさんは妖艶に微笑んだだけだった。
「なぁ、さっきから二人の話がわからないんだけど、それって黛の好きな人のことですか?」
なんだか置いてけぼりを食らったようで、そのまんま拗ねた声を上げてしまい恥ずかしい。
しかし、出てしまったものは仕方ない。
俺はそのまま続ける。
「黛は初めてここに来たのに、どうしてユーヤさんが黛に好きな人がいてどんな人かまで知っているんです?
俺だって知らなかったのに」
ユーヤさんがゆっくりと視線をこちらに流す。
いつもはかわいいしわができる目尻は、すっと切れて流し目が俺を射る。
あまりの艶っぽさに息が止まる。
「さぁ、どうしてでしょうか。
佐藤さんより年上なので、ちょっぴり見えるものが多いのかもしれませんね。
それに」
綺麗な眉を動かし、悪戯っぽく笑う。
「思ったより佐藤さんが子どもっぽくてかわいらしいのにびっくりしました。
これは大変だ。
もっと大人っぽい方かと思っていたのに」
「は?」
今、思いっきり失礼なことを言われた?
「もっと周りをよくご覧になったほうがいいですよ。
知らないうちに佐藤さんに振り回されている方がいらっしゃるかも」
ちょっ。
俺が言い返そうとしたとき、黛が俺の肩にぽんと手を置いた。
「当たり、だな」
「えー、黛までなんだよ」
「おまえ、鈍すぎるの。
大学の時だって、好意を寄せてくれてた女の子を随分袖にしてたんだ」
「え、嘘」
「あらあら」
ふわっと笑ったユーヤさんは、元に戻っていて、いつもの花のようでかわいい笑いじわが目元に浮かんだ。
「やっぱり、佐藤さんに『花宴』をお出ししたほうがよかったかな」
「いやいやいや、俺、あれを飲んだら眠れなくなりそうです。
癒しがいっぱいのでよかったです」
「そう?」
小さく首を傾げ、ユーヤさんはふんわりと笑う。
「黛さんの熱、届くといいね」
「ありがとうございます」
やっぱり面白くない。
ここには俺が先に通っていて、ユーヤさんをずっと見ていて、少しずつ話ができるようになっていたのに。
ユーヤさんもユーヤさんだ。
オーナーかなんか知らないけどイリヤにあんなに簡単に身体触らせて、黛と親しく話をして。
いろいろ面白くない。
「佐藤」
「なんだよ」
「今晩、泊めて」
「まだ終電あるだろ」
「あるけど、なんだか一人でいたくない」
「は?
珍しいな、おまえがそんなこと言い出すなんて」
「だめ?」
「いいけど」
仕方なく承諾すると、黛が満足そうにうなずいた。
俺はふてくされたままだったけど、ユーヤさんはそのやりとりを聞いて微笑んでいた。
■参考
カフェILYA fujossy BL 閲覧注意
発表前に読んでもらえる心強さ / 「カフェILYA」あとがき